飛騨大鍾乳洞は標高900mに位置しており、観光鍾乳洞として日本で1番高いところにあります。
昭和40年に発見され、昭和43年から観光鍾乳洞として一般に開放されました。
洞の長さは約800mで、気温は年間平均12℃となっており、洞内は夏は涼しく絶好の避暑スポットとして人気となっています。逆に冬は不思議と暖かく感じます。この安定した低温・暗黒の環境を利用してウドの栽培や、日本酒やワインを長期低温貯蔵しています。
この鍾乳洞も含めて、周辺一帯は「コカンゾ谷一帯の鍾乳洞」として高山市の天然記念物に指定されています。
鍾乳(鐘乳に同じ)が形成されている洞窟(洞穴)をいいます。ちなみにこの「鐘乳」とは、もともと釣鐘の表面にある突起を意味しています。「鍾乳石」は、天井から垂れ下がった鍾乳のような円錐もしくは円筒のつらら状のものが一般的ですが、次のような色々なタイプがあります。
①つらら石:つらら状に垂れ下がっている。
②鐘乳管(ストロー):真ん中に穴がありストローのようになっている。飛騨大鍾乳洞では、この繊細な鐘乳管が多く見られることで有名。
③ヘリクタイト(曲がり石):ねじれたり曲がりながら垂れ下がる珍しい鍾乳石。飛騨大鍾乳洞では、日本の鍾乳洞の中で最も多く見られる。
④フローストン(流れ石):鍾乳洞の壁を覆うようにできた鍾乳石。
⑤石筍:鍾乳洞の床に、天井から水滴が滴下し、溶けていた石灰分が固まってタケノコのように上へと成長したもの。
⑥石柱:天井から垂れ下がった鍾乳石と床から成長してきた石筍がつながり、柱状になったもの。
⑦洞穴サンゴ:主に壁から数㎝の長さに成長したもの。
二酸化炭素を含んだ雨水が、石灰岩の隙間や割目に流れ込み、まわりの石灰岩を少しずつ溶かします。やがて地下水の通り道が次第に広がり鍾乳洞ができます。石灰成分を溶かした地下水が、割れ目から広い空洞へ出ると、地下水中の二酸化炭素は、空気中に放出されます。一方、炭酸水素カルシウムは、方解石という形で液体から結晶が固体として現れ、次第に生長して鍾乳石になります。この鍾乳は、白色もしくは灰色で方解石(炭酸カルシウム)という鉱物の粒からできています。
鍾乳洞は、石灰岩という岩石の中に形成されます。そのため石灰洞ともいいます。 石灰岩は、有孔虫・ウミユリ・サンゴ・貝など動物の遺骸(炭酸カルシウムなど)が、海あるいは湖の底に溜まってできる堆積岩の一種です。生物起源の岩石なので生物岩ともいいます。 そのため、石灰岩からは、しばしば石灰岩のもとになった古生物の化石が見つかります。
ここ飛騨鍾乳洞の中には、ウミユリの化石が見られます。探してみましょう。また付近の石灰岩の地層からは、ウミユリ以外にもフズリナ化石など古生代後期の化石が多く見つかっています。
飛騨大鍾乳洞を作っている石灰岩のもとは、なんと日本のはるか南の太平洋上にあった火山島や海山のサンゴ礁でした。このサンゴ礁ができたのは、今からおよそ2億5千万年も前(古生代後期)のことです。このサンゴ礁のある火山島は、海底に溜まった泥などとともにプレートの移動に伴い、ゆっくり北上。そして、当時のユーラシア大陸の端に次々と押しつけられて(付加)砂岩や石灰岩といった堆積岩(美濃帯)になりました。そして次第に隆起して、今私たちの目の前に姿を見せています。
この美濃帯の地層は、乗鞍岳の基盤岩として、飛騨大鍾乳洞よりも2.5倍以上の高い海抜2400mの高さにまで隆起しています。
石灰岩は、石材やセメントの原材料として、あるいは、土壌改良材等に用いられるとても大切な岩石資源という一面を持っています。しかも日本で唯一自給できる岩石資源です。
高山陣屋の第八代代官を務めた長谷川忠崇(ただたか)が、時の将軍徳川吉宗の命により著(あらわ)した「飛州志」という地誌があります。この本のなかに、飛騨大鍾乳洞の直ぐ近くの山腹にある出羽(でわが)平(たいら)窟(両面窟)について次のように記しています。
「出羽平:昔宿儺(すくな)という神人がこの窟に住んでいた。中は大層広く、その大きさも定かでなかったので松明(たいまつ)をつけ調べてみた。窟の中には、千畳敷という広い空間、田という湿地、円頂部に水の溜まった硯(すずり)(石筍(せきじゅん)のこと)、白く濁った水が滴りおちて固まった石乳(鍾乳石のこと)などがみられた。窟の由来や国説は不詳だが、仁徳帝の頃(五世紀前半)、宿儺は飛騨にあって皇命に逆らったため、官兵に誅(ころ)されたと日本記にある。」とあります。
さらに「飛州宿儺の説」として「日本書紀に仁徳天皇の65年の条に、飛騨の国に宿儺という人物がいた。一つの身体に二つの顔、四つの手足がある。膝はあるが足のくぼみやかかとがない。力が強く敏捷(びんしょう)。左右に刀をさし四つの手で弓矢を射る。皇命に従わず人民から略奪し自らの楽しみとしていたので仁徳天皇は武振(たけふるくま)熊(くま)を派遣して宿儺を成敗した。以上按(あん)ずるにこのことに関しては不明な点があるが千光寺には宿儺の石像が安置してある。」と記しています。
大和朝廷側からは異形の賊として描かれていますが、地元では人々を守った英雄あるいは守護神両面宿儺としてあがめられてきました。両面宿儺の謎は、今までも多くの人々の関心を呼び様々な説が唱えられています。